思春期のマインドのままに年を取る
個人的には14才のころの暗黒面で得たダークフォースが自分の人生の苦しみを緩和、解体、乱反射、拡散、離散、してくれていることに頼っている人生が今もなお続いているし、今後も続いていくことと思う。中二病で人生、地に足ついてやっていくのかね?って感じではあるが、ダークフォースは有益だと思う。ほんとはダークフォースは学校生活の中に適応され、ある種のトラウマや迫害を受けることによって有益性を否定されていくものなんだろうけども、私にはそれがないので、ダークフォースにまつわる自尊心は無事無傷で、いつも心にあるものであります。それらに社会還元性を持たせたいというのが最近の目標の一つとなっており、ブログにログする形で形になっていけばいいかなと思う。あとダークフォースって言うのやめろ。
社会還元性とはなんだろうか。換金性の余地があればそれはそうなんだと思う。社会的価値があってビジネスなのか、ビジネスがあって社会的価値なのか、にわとりとたまご感ある、
ダークフォースとはなんだろうか。これをもはや覚えていない。当時から思っていたが、つらい記憶で心閉ざしていくから覚えていられないものだ。思い出したとしても、それは当時感じていたことではなくて、思い出した今この瞬間の自分のリアクションとして想起されるものだろう。だから、今思い出しても、もしくは思いついても、もう遅いかもしれない。
言葉の意味論、無意味論、概念の構造、相対化、行き過ぎた相対化、メタ認知、さらにメタな再帰的認知、構造認知、解体、再構築、認知のゆがみ、心モジュール、価値観の多様性、有限性、内向性、外向性、内向性の中身、内向と外向を分け隔てるもの、内向性の内向性、常識の範囲、常識は非常識性、コミュニケーションのディスコミュニケーション性、、、
あんまり、おぼえてないや。当時のすべてを悟ったような全能感と絶望感がぐっちゃぐちゃになっていたのを今思い出した。
病的な自分の社会適応能力の無さがまねく悲惨な人生を容易に想像でき、自殺することが最良でもっとも幸せな人生の歩み方なのではないかと思っていた。でも、生の延長上で、生きる苦しみの文脈で、自殺することはかっこ悪いと思ったので、ひたすら自分内宇宙を探索した結果、どうも自分はどうしようもなく、心の底の底から、生が、人が好きなんだと気づいて絶望した。幸せに生きたいゆえに死にたがっているのだと気づいて絶望した。そんなふうには決して生きてはいけないのだと決まっているからだ。絶対に幸せになれない自分の一番の欲望が幸せに生きたいだった。だから決めた。苦しくてもつらくても、地はいつくばって、泥水すすってでも、無様でも、みじめでも、生きていくんだと。そして自分が死んで悲しむ人が完全にいなくなったら、自殺しようと思った。
そんなことを思い出した。今のところ自殺は考えていない。今後は知らん。が、病気になってリアルで身体状態が死にそうになって、その苦しみを体で覚えてしまったため、たぶんもう死にたくないが支配的なマインド。それは成長というのか。。。
死生観みたいな物がまだまだ揺れ動いているのは良いと思う。
内向性は、内向性の内向性からみると、外向性なのではないかという再帰的構造を見出して、内も外も一緒なんだと知ったあれは認知のゆがみなのか真理なのかとか。そんなふうに世界を二元論的に単純化しても関係ないんじゃないかとか、認知のゆがみコレクションで新の自由を手に入れられるんじゃないかとか、自由は、不自由から、別の不自由への移行にすぎないんじゃないかとか、抽象的思考が現実と剥離して、ただの言葉遊びにすぎないんじゃないかとか、言葉の意味すらたどれない僕らの会話は言語ゲームにすぎないんじゃないかとか、誤謬する真理とか、、、
覚えていたい。思い出していきたい。よくわからないままにしていきた。
心の傷えぐるようなことにならないといいけど。
ほぼ、娯楽にすぎないんじゃないか。自分の過去をコンテンツにし始める気なのか。
まぁ、二元論の再帰的相互内包関係のグレースケールないし境界の話は気になる。