Bercriber's Blog

車が欲しい件兼横を見て妬むな身の程を見よ

なんとなく車欲しい感が不死鳥のごとく再燃しては結局買わないわけだが、合理的ないし金銭的理由もあれば、車を購入するという行為自体への恐怖感もある。そんなこんなで今週もインプレッサがなぜだか気になって60万位で買えそうだったのでこんなもんでええやろ感で買おうかと思いつつも、普通に新型Mazda3とが欲しいわけです。予算的には問題ないが将来的な稼ぎへの不安があるのでできるだけ大物の贅沢はしたくないわけですよ。自分が欲しい新車とか買うと250万から~って相場だが、型落ちの中古で探ると100万前後でなんとなく買えるわけで。その150万の差は果てしないわけで。普通のサラリーマンとかだったら棒茄子数年分でなんとでもなるんだろうけど私はそんなゴミ分ないしご身分ではないのでそんなもん降ってこないわけで。やはり自分自身を達成してない人間には居場所も回り物もないのだろうと思う次第です。デミアン先生がそんなようなこと言っていなかった気がする。で、100万位の予算でどうすっかなと今度こそ買う買う詐欺に引っかからないようにするかと思っていたところで、目に留まって、入って、捉えてしまったのが旧友(今は付き合いないが昔はとても中が良かった)のご実家にMazda CX-30が止まって、それを洗車している風の旧友らしき人がいたわけです。それが旧友その人なのか、それともご家族もしくはご友人なのかは分からないが、色々と駆け巡る頭の中はおぼろげに本人だろと考える次第で。昔は私も旧友も車好きで楽しく話していました。しかし私は引きこもりになり、交友関係すべて捨て去って消え去ってしまったのでそれ以降は知らんのですが、時が経ち父の仕事の手伝いを通じて社会復帰し、免許とっていかに運転が難しいものであるか、危険なものであるかということを体感しPTSD気味になってしまい車購入はしばらく考えていなかったのです。一方彼の自宅にはスポーツカーが、時には高級車が止まっているのを見て、車好きの仲間と楽しくやっているのだろうと思っていました。免許を取って数年が経ち運転にも慣れてきたところで、予算にも余裕が出来てきたところで、発表されたばかりのNDロードスターでも買うぞ!というお気持ちでディーラーに行きました。試乗も終え、まぁこんなもんなのかとちょっと期待外れではあったけれども購入するつもりで見積もりを作ってもらいました。見積もりを待つ間なんか頭が痛い。オープンカーだったし日差しにやられたかなと思っていたら直滑降。数日後くらいからひどい体調不良に襲われ、なんかもう説明するの痛々しくてやだわ。つまり体がお壊れになられたのです。マジで死ぬかと思った。全然死ぬたぐいの病気ではなかったけど。とはいえ最悪自殺もあってもおかしくない病気であるが。ということで、車は買うどころか十分に運転さえできないような体調が数年続きました。それが22歳くらいで今27歳後半戦ということで5年ですよ。5年病気でいろいろ人生損したわけですが(得たものもちゃんとあってよかったよね)、根本的にはこの病気は持病で天性のもの、生まれ持った病気で、よくよく思えば14歳くらいから色々おかしかったなくそがという感じです。これは治らない病気なので今後の人生もこんなようなもんになることが予想されます。それを踏まえるといくら貯金あろうが、働けなくなれば数年で消えてく程度の貯金なので、車に大金はたいても、満足に運転できない健康状態に近い将来再びなる可能性も否定できないので、無駄金なのではと思うわけです。しかしながら私は子供の頃から車が好きで道行く車の名前を全て言えるような子供でした。そんな私にとって車はロマンであり、金銭的合理性など介入させるのは愚の骨頂であるということもできるしだいなのです。とはいえ、私の人生において最大の衝撃は、今の私を支配している最大の価値観は、病気です。趣味と健康どちらを選ぶのか、十分に身の程にあったお小遣いで済むようであれば、趣味を。そうでなければ、病気に備えよとなるわけです。そして今の私は「その身の程にあったお小遣い」を値踏みしてい境地なのだろうとこれ書いてて今思いました。そうなんだね。それが中古車ですますか自壊欲張りセットの新車にするかという問題で、ここまで書いておのずと答えはやはり、中古車となりました。知ってた。病気的に車は控えよという理性と車好きロマンの間で揺れて揺れて、中古車なら財布の傷は浅いし、病状悪化で運転できない状態に再びなっても精神的傷も浅いという妥協が生まれるたのです。さあさあ話を戻してタイトルの「兼」の方です。「横見て妬むな身の程を見よ」の件です。自分がちっぽけな中古車でも買おうかというタイミングで、旧友は新車を納車してるわけです(認知のゆがみか?彼の車とは確定してない。それもまた希望的観測か?)どっちにしろ自分がホントは欲しかったような車を彼の家に止まっているのを、洗車っぽいことしているのを、見てしまったわけですよ。あぁ。ここで妬みやみじめさが生まれる瞬間に立ち会うわけですよね。いつまでたっても知人と自分の人生をくらべ嫉妬や妬み、哀れみの中でこのようなざまを繰り広げるわけです。このようなですよ、このような、本文のような。そして身の程をわきまえよ。自分の人生を生きよと言い聞かせて、みじめさを受け入れていくのです。くそが。自分の人生にフォーカスして向き合うこととそれに付随する社会との乖離が私の文脈では不可分という認識なので、これもまた修正する必要がありそうです。認知のゆがみ。どうすんだろ。病気ではなくギフトなんだと、天からの贈り物を授かった素晴らしい才能あふれる仕組みをもった体なのだとし、積極果敢に破壊的に社会参加していくことが必要だったのではないのかとアクロバティックな考えも去来します。無理だったんだよ。ストレスで死にかけてるよ。そのような極端な話ではなく、自分の体に合わせて社会との接点を維持する努力を生涯をかけてしていき障害を克服し続けるという生き方になるのではないのでしょうか。知らんけど。書いていてスッキリしたので何の問題解決にもなってないが改行しようと思います。「\n」